名古屋から快速列車で一時間強の、中央西線の運行上の拠点。中津川市は岐阜県南東部で木曽川が流れる盆地や扇状地に位置する、人口約8万人の宿場町。駅弁は戦前からの駅弁屋である梅津亭が、駅舎内の待合室とホームに面する立ち食いそば店で販売するほか、日中には下りホームへ台売りに出ていたが、2011年4月20日限りで撤退した。1902(明治35)年12月21日開業、岐阜県中津川市太田町2丁目。
横川駅弁「峠の釜めし」を頂点に、全国で見られる釜飯駅弁のひとつ。木のフタをかけるプラスティック製容器の中身は、味付け御飯の上に鶏肉、タケノコ、うずら卵、栗、わらび等が載る普通の釜飯駅弁。しかしその具や米粒はひとつひとつがしゃきっと締まり、まとめて口に含んでも個々に独立した味を出し、中山道馬籠峠越えを前に気分が引き締まる思い。この駅弁は調製元の撤退により2011年4月20日限りで失われた。
※2012年4月補訂:終売を追記表に駅弁の名前を書く、横にとても細長いボール紙製の専用容器を使用、これに割りばしを置いて、ひもで十字にしばる。中身は栗おこわに鳥肉磯部揚、だし巻玉子、焼き魚、鳥つくね、里芋や椎茸などの煮物、さくらんぼなど。そんな中身はまるで、幕の内弁当の御飯を入れ間違えたよう。おこわはこの日の小雪舞う外気により、しっかり冷蔵されていたにもかかわらずもっちりとやわらかで、甘みが過ぎると思われそうな栗フレークとの相性もいい感じ。この駅弁は調製元の撤退により2011年4月20日限りで失われた。
※2012年4月補訂:終売を追記1980年代に使われたのではないかと思われる、昔の中津川駅弁の掛紙。中身はおそらく助六寿司だろう。必要最低限かそれ以下の情報のみが記される。
1935(昭和10)年5月23日18時の調製と思われる、昔の中津川駅弁の掛紙。中津川から恵那峡までわずか1kmとは思えないのだが、恵那駅北約3kmの大井ダム周辺が現在に恵那峡と呼ばれるためであり、峡谷を刻む木曽川は当時も今も駅北約1kmを流れている。景色はだいぶ変わっているだろうが。
1933(昭和8)年10月15日20時の調製と思われる、昔の中津川駅弁の掛紙。シンプルな鳥瞰図で、恵那峡と北恵那鉄道の路線図を描く。北恵那鉄道は1924(大正13)年8月から1978(昭和53)年9月まで、中津川駅と中津町や恵那峡を結んだ電気鉄道。
1928(昭和3)年9月不明日の調製と思われる、昔の中津川駅弁の掛紙。木曽川下り恵那峡舟遊の文字と風景を描く。1927年に東京日日新聞と大阪毎日新聞が、読者投票と著名な文人8名による審査で、山岳、渓谷、瀑布、温泉、湖沼、河川、海岸、平原でひとつずつの「日本八景」を選出、河川では木曽川が選ばれた。
1922(大正11)年の調製と思われる、昔の中津川駅弁の掛紙。同年に上野公園で開催された平和記念東京博覧会で英国の皇太子殿下が来日されたことを記念して、全国各地の駅弁屋が同じデザインの記念掛紙を使用したもの。周囲に日本と英国の国旗を配し、右に駅弁の名前、左下に調製元、下部に日英の歓迎文、上部の2枠は広告枠。