東京駅から電車で約25分。横浜市は神奈川県の東部で東京湾に面した、人口約380万人の港町。東京の衛星都市として人口日本一の市であるほか、異国情緒とウォーターフロントで多くの観光客も集める。駅弁は、大正時代からの駅弁屋がコンコースやホーム上や駅周辺各地に駅弁売店を構え、「シウマイ弁当」は日本一売れる駅弁とされる。1915(大正4)年8月15日開業、神奈川県横浜市西区高島2丁目。
2009(平成21)年6月1日に、従前の駅弁「いなり小町」をリニューアル。小さな長方形の容器に、商品名とキツネの絵馬などを描いたボール紙のふたをして、輪ゴムでしばる。半透明のシートに包まれた中身は、おいなりさん4個とかんぴょう巻2個と袋入りガリ。最近8年半の奇抜さはどこへやら、とても普通の姿に戻っていた。価格は2009年の発売時で500円、2014年4月の消費税率改定で510円、2018年9月から520円、2022年10月から540円、2023年10月から580円。
※2023年10月補訂:値上げを追記2009(平成21)年6月2日に購入した、横浜駅弁のパッケージ。中身は上記の2014年のものと同じ。当時の横浜駅弁の掛紙やパッケージには、価格が記載されていた。
2008(平成20)年3月1日に従来の「三色いなり寿し」をリニューアル。稲荷寿司が風味をあまり変えないまま4個から3個へ減り、太巻3個が中身をかんぴょうや漬物に変えて細くなり、玉子焼が追加された。価格はこの値上げの御時世に据え置きの500円、分量が減ったため軽食駅弁の雰囲気が増した。掛紙の華やかさも増している。
2003(平成15)年11月15日に従前の駅弁「いなり寿し」をリニューアル。稲荷寿司の個数を変えず、細巻4個を太巻3個に変えて、価格はそのままにしただけに見えて、掛紙の下部に記されるとおり、稲荷寿司の一個は油揚げを黒糖で煮た、一個は山菜おこわ入りに替わり、太巻きも穴子巻とかんぴょう・山牛蒡・高菜等の入った二種を用意、味の変化と個性が大きく向上した。同時に癖も付いたため、黒糖稲荷あたりで好みが分かれそう。2008年3月に上記の駅弁「いなり小町」へリニューアル。
2001(平成13)年8月1日に従前の駅弁「太巻いなり寿司」をリニューアル。昭和40年代のものをデザインした掛紙をかける。いなり寿司が4個と、かんぴょうの細巻が4個で、駅弁の名前と中身が合ってきたが、ごわごわ感のあるいなり寿司など、食感や風味は東海道本線下り方面のいなり寿司駅弁には及ばず、シウマイや中華弁当の崎陽軒なので、餅は餅屋にという感じがしないでもない。2003年11月に上記の駅弁「三色いなり寿司」へリニューアル。
外観からはいなり寿司を想像するが、長方形の木製風紙容器に入るいなり寿司はふたつだけ。同じく太巻も海苔巻きと玉子巻きのふたつだけで、メインは実は細巻きである。2001年8月に上記の駅弁「いなりずし」へリニューアル。
1979(昭和54)年4月22日8時の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。駅弁の名前に「のり巻」が付く駅弁は、もう伊東駅弁だけの存在かもしれない。新幹線と特急列車の時代になり、急行や鈍行の時代に書かれていた、空箱を腰掛の下に置くことを勧める注意書きはもうここにはない。
1980年代、昭和55年前後のものと思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。折箱をすっかり包む包装紙には、港の船と掃部山(かもんやま)の井伊直弼像、本牧の三渓園旧燈明寺三重塔と八聖殿、神奈川県庁と開港記念会館、山下公園と氷川丸、当時の横浜駅東口駅舎が描かれる。みなとみらいがまだ、三菱の造船所だった頃。
1972(昭和47)年1月23日12時の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。2001(平成13)年8月1日発売の「いなりずし(500円)」の掛紙に、この六角形の背景と文字の絵柄が流用された。
1940(昭和15)年11月11日12時の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。この年の紀元二千六百年、神武天皇の即位を紀元とする暦で2600年であることを記念した駅弁の掛紙は各地にあるが、これを「奉祝紀元二千六百年」のスタンプで済ませるものは、あまり見たことがない。
1936(昭和11)年3月12日4時の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。掛紙の模様は、何か特定の物を描いたのではないと思う。「窓の外に、空瓶、其他の物を投げられた爲、人に怪我をさせた實例が、尠くありませんから、御不要品は、腰掛の下に、お置き下さい」のような内容の注意書きは、大正時代から戦前昭和までの駅弁掛紙のほとんどに記載された。故意か不注意か、汽車の車窓からごみが、それこそ瓶や器のような重量物が落ちたり捨てられて、線路工夫に当たるなどの事故が、ニュースバリューを持たないくらい頻発していたことがうかがえる。
1933(昭和8)年10月1日の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。収集者は1919(大正8)年10月1日の調製と判断したが、調製元の崎陽軒が合名会社になったのは1923(大正12)年5月15日のことなので、これ以降のものとなる。横浜らしさも駅弁らしさもない、不思議な絵柄だと思う。横浜駅弁のシウマイにひょうたん型の醤油入れが入るのは、第二次大戦後のことである。
1932(昭和7)年12月26日1時の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。ヤジロベエのようなもののみが描かれる、特徴のない絵柄。真夜中でも汽車が来て駅弁が売れた静岡駅などと違い、すべての列車の始発駅や終着駅であった東京駅から30分の距離で、深夜に客を乗せた汽車が来ることのない横浜駅。午前1時に寿司を調製して、誰に販売したのかが気になる。
1931(昭和6)年7月21日の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。横浜名所根岸海の風景を描く。横浜市根岸には、1959(昭和34)年に工業地帯の造成のための埋立が始まるまでは遠浅の砂浜があり、海水浴や潮干狩りなどの行楽で賑わい、エビやアナゴやシャコに海苔の養殖など江戸前と同じ漁業が盛んだった。その頃の光景が、ここに描かれる。
1930(昭和5)年3月25日9時の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。マグロとホタテと木桶と笹を描いているように見える。駅名と定価の記載はあるが、鉄道に関する注意書きがないので、駅弁でなく市中の弁当向けの掛紙かもしれない。
1929(昭和4)年3月20日7時の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。桜か梅の花が咲く池に赤い鯉が集う構図か。
1928(昭和3)年5月14日16時の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。桜と水面と舟か何かの絵柄か。1915(大正4)年8月の横浜駅の高島町への移転と同時に、久保コトの崎陽軒は野並茂吉の匿名組合崎陽軒となり、1923(大正12)年5月には法人組織の合名会社崎陽軒となった。
1928(昭和3)年5月14日14時の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。上記の掛紙と同じもので、調製日時が2時間しか違わない。90年以上前の、当時駅弁があまり売れなかったという横浜駅の掛紙が、複数見つかることは珍しいと思う。
おそらく1920年代、大正10年代のものと思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。収集者は1920(大正9)年のものとした。木桶に盛られる笹と鯛と伊勢海老に井戸が描かれているように見えるが、これは何を意味するのだろうか。
2002(平成14)年4月19日に発売。チーズサンドが2切れ、ハムサンドが2切れ、タマゴサンドが2切れと、ここまでは何の特徴もないが、「シウマイ御弁當」などでお馴染みのタケノコ煮をすりつぶしたものを入れるサンドを1切れ入れて横浜駅弁を主張している。軽い朝飯にぴったり、というより早朝の時間帯を外すとまず入手できない横浜駅の新しいサンドイッチ。現在は売られていない模様。
サンドイッチだけ入っていると思い購入すると、ツナ・玉子・カツのサンドがふたつづつに加え、唐揚げ・ポテト・しめじパスタにミニトマトやパイナップルも入る、食べ飽きない構成にうれしかった。サンドイッチ6切れだけで700円も取る東海道新幹線の車販サンドよりこちらを買いたいが、昼以降はたいてい売り切れている。2002年4月19日におかずのない「サンドウィッチ」(400円)に置き換えられた。
1930(昭和5)年9月8日17時の調製と思われる、昔の横浜駅弁の掛紙。おそらく中身と関係なく、スズメか何かの鳥を現代アートのように描く。
創業1839(天保10)年という横浜屈指の老舗の寿司屋の、昔からのハマっ子ならば誰もが知ってるいなりずし。うぐいす色の紙箱にいなりずしが何本か入っている。味もさることながらその色艶の美しさは日本一級だと思う。駅構内では買えないと思うが、関内尾上町(おのえちょう)の本店の他に、市内の百貨店や横浜スタジアムなどで販売されている。
上記商品の別パッケージで、横浜駅北口改札内コンコースの弁当売店で購入。食品表示ラベルの商品名「いなりのり弁当」のとおり、泉平名物のいなりずしに加えて、かんぴょう巻きが4個入っている。こうやって地元の名物が駅の改札内で毎日買えるのであれば、駅弁と見なして良いと思う。