東京駅から新幹線で3駅35分。小田原市は神奈川県の南西部で相模湾に面する人口約19万人の城下町かつ宿場町。関東地方の西の出入口として、戦国時代や江戸時代に歴史の舞台となった。駅弁は明治時代に国府津駅で創業した、東海道本線では最古の駅弁屋が健在だが、実態はJRや小田急の子会社が近隣のものを含めた駅弁を集めて売る。1920(大正9)年10月21日開業、神奈川県小田原市栄町1丁目。
2011(平成23)年6月4日と5日に横浜市内の日本大通りで開催されたイベント「2011tvk秋じゃないけど収穫祭」で、小田原駅弁の東華軒が震災復興支援の一環で、一日あたり300個をテント売りした惣菜。小鯵押寿司4個と、エリンギとオクラの軍艦巻、シイタケとトマトの軍艦巻、アスパラ寿司、えごま寿司を詰めて580円。
同社の小田原駅弁「野菜寿司」のコンセプトと「小鯵押寿司」そのものが、透明なプラ製トレーに同居している。掛紙もプリンタ出力ながら調製情報が完璧に記されるなど、駅弁屋としての性格がにじみ出ている。もっとも、中身はあまりうまいものではなかった。
日本大通(にほんおおどおり)は1870年代に整備された、全長約400メートルで全国初の西洋式街路。慶應2年(1866年)の大火を受けた諸外国からの要求により、明治政府のお雇い外国人であったリチャード・ヘンリー・ブラントンの指導のもと、幅40フィート(約12メートル)の車道の両脇に幅30フィート(約9メートル)ずつの植樹帯と幅10フィート(約3メートル)ずつの歩道を設けるという、当時の日本国内にあるまじきタイプの街路が外国人居留地と日本人街を切り分けた。
昭和後期の頃は広い車道と少ない交通量で事実上の青空駐車場として寂しく使われていたと思うが、現在のみなとみらい線の工事ヤードとして使われた後の2002年の再整備で、車道を幅員22メートルから9メートルに縮小し、全幅120フィート(約36メートル)のうち両幅13.5メートルずつを歩道(植樹帯を含む)に充てた。2007年には文化財保護法に基づく登録記念物となり、今ではドラマやCMなどの撮影、オープンカフェ、歩行者天国によるイベント開催などに使われている。
2007(平成19)年5月に発売。そんな新作にしては野暮ったいデザインの掛紙を、木目調のボール紙容器にかける。中身は写真右上から順に、しそ巻き、広島菜、みょうが、ナス、レンコン、左上に移ってかんぴょう巻き、玉子焼、椎茸、いなり、赤カブの寿司が詰められるもの。野菜だけの寿司ではないが、肉も魚もないのは確か。味に関する感想を求められれば、微妙としか答えられない変わり種。2007年中に終売か。
※2014年7月補訂:終売を追記JR東日本会社発足20周年記念駅弁の小田原駅版として、2007(平成19)年の秋までに発売。中身はつまり上記の駅弁「野菜寿司」の中身のうち4個を、小鯵と金目の各2個ずつに置き換えただけ。掛紙のうたい文句どおり、小田原駅押寿司駅弁のオールスターではあるが、見栄えがこんなに貧弱では、東海道線最古の駅弁屋の伝統と歴史が台無しになる。記念駅弁リストに名前を残して消え去りそうな印象。1年くらいは売られた模様。
※2014年7月補訂:終売を追記