東京駅から新幹線で25分、在来線で40分前後。さいたま市は、2001年に浦和・与野・大宮の3市が合併してできた、人口約133万人の政令指定都市。大宮駅は明治時代からの鉄道の要衝で、在来線に加えて新幹線も分岐するターミナル。駅弁は1907年から2社が競ったが、1990年頃までに2社とも撤退し、東京駅と同じ駅弁が売られるようになってしまった。1885(明治18)年3月16日開業、埼玉県さいたま市大宮区錦町。
1979(昭和54)年9月18日の調製と思われる、昔の大宮駅弁の掛紙。なんでもない紙切れであったはずが、大宮駅はおろか埼玉県のすべてのJR駅から地元の駅弁屋が消えたため、今では希少性が増している。しかし当時も今も多くの利用者で賑わう大宮駅ほどの大きな駅で、なぜ駅弁が消えたのか、とても理解に苦しむ。
1970年代に使われたのではないかと思われる、昔の大宮駅弁の掛紙。どんな駅弁だったのかは、これを見ても分からない。大宮や埼玉のことも、何も描かれていない。
1950年代、昭和20年代の、12月11日12時の調製と思われる、昔の大宮駅弁の掛紙。大館駅の鶏めしの掛紙に似たような感じ。左下に「人造米使用」とあり、米の流通が改善する1955(昭和30)年より前、あるいは駅弁に等外米が普及する1952(昭和27)年より前のものだろうか。
1938(昭和13)年4月16日正午の調製と思われる、昔の大宮駅弁の掛紙。大宮氷川神社のある氷川公園と、大正時代風の電車のシルエットが描かれる。1932(昭和7)年9月の電化で、現在の京浜東北線の電車が大宮駅へ乗り入れた。
1935(昭和10)年11月10日の調製と思われる、昔の大宮駅弁の掛紙。大宮氷川神社の神池を描いたのかどうか。
1932(昭和7)年3月12日6時の調製と思われる、昔の大宮駅弁の掛紙。調製元の濱長は、1907(明治40)年から大宮駅で駅弁を販売、鉄道弘済会に雑貨等の販売を取り上げられたことを機に、1934(昭和9)年2月に氷川屋と門奈と合併して三立軒になったという。
1932(昭和7)年3月11日正午の調製と思われる、昔の大宮駅弁の掛紙。掛紙に描かれたのは、現在の大宮公園の隣にある氷上神社だろうか。鉄道の要衝である大宮駅には、ムサシ食品と三立軒の二社の駅弁業者があったものの、1987(昭和62)年の国鉄分割民営化後、バブル経済の時期に、相次いで撤退した。
1931(昭和6)年12月26日20時の調製と思われる、昔の大宮駅弁の掛紙。35銭の価格を30銭に訂正したと思われる。汽車と草藪か何かを描いたのだろうか。
1930年代、昭和時代初期のものと思われる、昔の大宮駅弁の掛紙。収集者が1928(昭和3)年9月30日の調製と判断し、下部に「3.9.30」の数字を書き入れた。しかし調製印で調製年月日を判断できる下記の掛紙「ちらしごもく」とは、掛紙の左右の注意書きが手書き文字か活字かの違いがあることから、こちらのほうが新しいものではないかと思う。それ以外の絵柄や記載事項は、まったく同じ。
1928(昭和3)年9月30日16時の調製と思われる、昔の大宮駅弁の掛紙。掛紙に描いた湿地か池沼は、現在の見沼公園あたりの風景かどうか。収集者は大正時代か昭和時代か不確実だと掛紙の下部に記したが、大正3年であれば調製印が、少なくとも調製印を押す欄がないはずなので、昭和3年のものと判断した。